「これは、もう一度きちんと切れる姿を見たい」
この包丁を手に取った瞬間、正直そう思いました。
初来店のお客様は女性。
結婚以来30年あまり、ずっと使い続けてきたという一本の牛刀を持ってこられました。
一目見て分かる、長年の使用による摩耗。
刀身全体は痩せ、先端は不自然に膨らみ、刃元は極端に凹んでいます。
刃には明らかな厚みが出ており、切れない理由がはっきりと見て取れる状態でした。
さらに柄を見ると、水分を吸って膨張し、心材と柄木の間に隙間が出始めています。
正直、一般的には「そろそろ替え時」と言われてもおかしくないコンディションです。
実際にお客様も、半ば諦めたようにこう言われました。
「もう研いでも無理ですよね。
新しい包丁に替えた方がいいですよね……」
でも、私は違う感触を持ちました。
使い込まれた刃の減り方、鋼の表情、そして手に持ったときの重心。
これは——
研ぎ直したら、必ず化ける包丁だ。
長年この仕事をしていると、そう感じる瞬間があります。
「使い慣れた包丁ですし、質も良さそうです。
一度、研ぎ直して試してみましょう」
そうお伝えして、研ぎ直しをお任せいただきました。
初見の銘「日立武蔵」
刀身には「日立武蔵 別打」の銘。
正直、初めて見る包丁です。
ただ、「日立」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは安来鋼。
日立金属の鋼材を連想させ、
「これは、きっと応えてくれる鋼だろう」
そんな期待を持ちながら作業に入ります。
まずは“形を作る”ところから
今回の肝は、切れ味以前に形です。
荒砥で刃のラインを整え、
先端の膨らみを落とし、
刃元の凹みをなだらかにつなぎ、
全体の厚みを均一にしていく。
この時点で、すでに63分経過。
形を整えるだけで1時間超えです。
このような状態の包丁は、刃先だけを削る研ぎでは対応できません。
その理由については、こちらの記事でも詳しく書いています。→「包丁研ぎ結局どこで研ぐのが正解?」
そこから
400番 → 1000番 → 2000番 と番手を上げ、
トータル86分で一度試し切り。
……悪くない。
ですが、刃元にわずかな違和感。
目でははっきり見えないものの、
長年の摩耗による“微妙な凹み”が、
まだ刃先に影響を残していました。
これが一度で決まれば、どれほど楽か…まだまだ修行不足です。
しかし、ここで妥協する訳にはいきません。
もう一度、最初から
150番に戻します。
先端付近をさらに削り、
刃元のラインをもう一段きれいにつなぐ。
220番で全体の厚みを再調整し、
そこから改めて
400番 → 1000番 → 2000番 → 8000番。
気がつけば、経過時間は135分。
刃先はまっすぐに揃い、
刀身には自然な輝きが戻り、
試し切りでも、文句のない切れ味が出ました。
採算? 正直、取れていません
今回の研ぎ直しは、時間も手間もかかり、正直なところ通常業務としては収益性は低い
ですが、包丁の質と状態、そしてお客様の想いを踏まえ、今回は思い入れのある特別な一本としてお預かりしました。
すべての包丁で同じことができるわけではありませんが、
「これはやる価値がある」
そう判断した時には、できる限り包丁と向き合いたいと考えています。
使い手の手に馴染んだ包丁を、
もう一度、現役に戻す。
「切れないから捨てる」ではなく、
「また使える」に変える。
これが、研ぎ屋のやり甲斐であり、
私にとっての生き甲斐でもあります。
なぜ、ここまで時間がかかるのか
「研ぎに2時間以上?」
そう思われる方も多いかもしれません。
ですが今回の包丁は、
“刃を鋭くする作業”ではなく、
“包丁そのものの形を作り直す作業”が必要でした。
長年の使用で、
-
刀身は全体的に痩せ
-
先端は摩耗で膨らみ
-
刃元は削れ方のクセで凹み
-
刃先には不均一な厚みが残っている
こうなると、
いくら細かい砥石で刃先だけを研いでも切れ味は戻りません。
まず必要なのは、
-
どこを削り、どこを残すかを見極める
-
刃のラインを“真っ直ぐ”につなぎ直す
-
切れる厚みまで、刀身全体を整える
この工程が、一番時間がかかり、そして一番重要です。
今回、荒砥での形作りに1時間以上を費やしたのも、
「一時的に切れる包丁」ではなく、
また何年も使える包丁に戻すためでした。
見た目は地味な作業ですが、
ここを疎かにすると、必ず切れ味は早く落ちます。
だからこそ、
一度納得がいかなければ、番手を下げてでもやり直す。
長年使われ痩せた刀身を無駄に削り過ぎないように、少しずつ削り進める。
それが研ぎ屋としての判断でした。
大切な包丁を預け、
「任せてみよう」と思ってくださったことに感謝しながら、
これからも一本一本、謙虚に研ぎ直しに向き合っていきます。
「切れない=寿命」ではありません。
包丁は、正しく手を入れれば、何度でも現役に戻れます。
包丁の状態で諦める前に、ぜひ一度、ご相談ください。
ご依頼、心よりお待ちしております。
【東京本店 伊勢】
